国を慮る
プロジェクトマネジメントプロフェッショナルという身分は、個人的なプロ意識の上に成り立っているのだが、その話を取り扱っていて、違和感を覚えることがある。
それは、もう少し国を慮って欲しい、ということだ。
最近ようやく、理想的なプロジェクトマネジャー像が描けるようになってきた。これを描くには、様々なフレームにおいて理想は、と、考えるわけだ。
プロフェッショナリズムは、個人的なものだ。プロフェッショナルのアカウンタビリティとレスポンシビリティはどこから生じるか、というと、社会と組織とのコミットメントだ。
もう一つ、インテグリティという言葉がある。インテグリティを大きく支配しているものも、社会だ。
個人は、社会によって生かされているのだ。
さて、こう書いても、なにか十分書き切れていない気がする。
考えてみると、(中国や)アメリカのような、政治的な国は、社会と言った時に国家を自然と考えるが、日本の場合、社会と言ったときに、国家を考えない(気がする)。
日本って実は、公共性の無い個人による社会なのではないか、、、と、思ってしまう。
しかし、現実問題、ビジネスの損得は別にして、国を慮るプロジェクトマネジャーが、確実に居る。公共性という意味での社会・国家を背景としたプロジェクトマネジャーが、多分私にとっての理想の条件の一つなのだろう。
実は、片方でEQとかやってるわけですが、個と公のバランスを、どこかで取らなければならないなぁ、と、思っています。EQでは社会的自己意識という言葉がありますが、それにしたって、もっと根源的な「社会的」とは何か、は、考えるべきかもしれません。頼りになる社会が、怪しい、ということは、要注意なことです。
とまぁ、首都圏で河川の氾濫に近い事が起こると、つい、自分の過去の仕事の関係を思い出して、・・・・・・と、思ってしまうわけだ。元土木屋の悲しさ、ですな。

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